風姿家伝の花

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(写真は越天楽の糸を美しい紫色で染めてくれる蝶豆の花です)

 

本を読んでいると

いい本であればあるほど

その時の自分の状態によって

(松岡正剛さんあたりは編集の力というのでしょうが)

全然違う風に読めたりします。

まあ、その時々の知識や構成力、経験

によって 変わってくることははあると思います。

 その本をどう読むかというのは

その人の現在のすべてを表しているのともいえるので、

感想を書くのは少し

面映ゆい気にもなります。

世阿弥さんが書かれた

「風姿家伝」は

日本人が美しいと感じる基準の一つ

とも言われていて

大好きな本のうちの一つですが、

久しぶりに読むと

特にその内容は

今の自分にとって

全然違う読み方になって

思わず笑ってしまいました。

ずっと

小賢しく裏読みして、

「時分の花」

ということが最重要で、

「今しかできない美しさ、

今あることの美しさ」

ということの表現の書だと思っていたのですが、

久しぶりに読むと

「花とは

我を消していくことによる

宇宙全体の瞬間的な把握である」

という意の書なんだなあと思い、

あ、そういうことかと愕然としました。

子供が出来てから

日々、子供と接する時間が増えると

子供の成長が

花のようで、

世阿弥さんいうところの

宇宙全体の把握を

日々、純粋に行って、

浅はかな個性ではなく

日々、世界に近づこうとして

咲いているさまは

儚くて

美しくて

うらやましくもあります。

ただ、子供の時に

自然と行っている世界への認識は

あくまで

 「時分の花」で、

大人になってからの

我を消していきながらの

世界への認識こそが

「真の花」

なんだよと、

世阿弥さんは

おっしゃられているようないるような気がします。

これを商売で考えると

全体を認識した段階で

すでに動きは決まっていて、

どう咲くか?

というのは

安易にどうするか?

ではなく

宇宙全体(世界や社会や自分)を

どう認識するか?

ということにつきるように思えます。

ということは、

結局いつものように

僕の苦手な

「見たくない現実を見る」

というところから

はじめなければいけないわけで・・・。

美しく咲くためには

地道に地を掘り、根を張る作業の繰り返しである

ということに直面させられるのでした。

以上、ひさしぶりに風姿家伝を読んだという話でした。