志ん朝さんの「ふら」
昨年
大切で
苦手なことに
シーシュポスさんのような気持ちで
向かい合わせてくれる
税務作業に
という話を書きましたが、
毎年同じことというのは嫌いなので
今年一緒に
在るのは
志ん朝さんでした。
(志ん朝さんの愛宕山です)
談志さんの
日常からの
芸に対する
執着と
執念、
自己の芸に対する
観は
他に追随を許さないもので、
狂気系の
落語
「死神」
の偏執的な素晴らしさは
今お弟子さんがされても
物足りなく感じ、
それを超えるものは
未だにないと
思っています。
(お弟子さんの談春さん最近凄いと思いますが)
(談志さんの死神です)
一方
志ん朝さんは
日常から
江戸の粋の
立ち振る舞い、
努力を見せずに
軽いのに
深い、
色気と艶、
にじみでる滑稽味、
落語でいうところの
「ふら」
を体現された方
だと思っています。
(志ん朝さんのそば清です)
相反する
二人に共通するのは
自分の
生まれもった
できることだけを
深めていく、
「中庸」
いうところの
「天命」
を脇目もふらずに
きわめつくした
というところだと
思っています。
ということは
自身に置き換えて
考えると、
結局
から入らなければ
ならないわけで‥。
以上
苦手な上に
山のようにある
事務作業から逃走して、
ブログを続け様に二つ書いてみたけど
当然
状況は全く変わっていない・・・。
という話でした.