(サックスがカマシワシントンさんです)
最近のJAZZで
「スターバックスに流れているようなJAZZはつくらない」
と言っていた
フライングロータスさんが苦手で、
だからといって
スターバックスで流れているようなJAZZは嫌いだし、
いわゆる一昔前と言われるコルトレーンさんあたりしか好きではないのですが、
最近のJAZZは
面白いと聞いていながら
いまいち手つかずでいました。
スイングジャーナルという雑誌で
中期以降紹介されていたようなJAZZが、
JAZZを駄目にした
と思っていて、
休刊になった時は
時代が変わるなと楽しみにしていたのですが
その楽しみにも関わらず
新しいものを受け付けられない自分に
うんざりもしていました。
そんな中で最近、
どの雑誌か忘れてしまいましたが
「カマシワシントンさんいいよ~」
というコラムがあって
「へー」と
聞いてみると
まあなんと深淵な音でした。
新しくもなく、
古くもなく、
彼だけの音なんです。
(上手いこと表現できませんので聞いてみてください)
彼の音を聞いていると
フライングロータスさんの文脈も
少し理解できてくるような気がします。
僕たちの時代は結構恵まれていて
音楽を聞くにしても、
映画を見るにしても、
哲学を知るにしても、
既存の知の量が少なく
適度な努力で
十分に満たされる幸せな時代でした。
でも、カマシワシントンさんの時代あたりから
既存の知が閾値(いきち)を超えて
1人の人間では扱いきれない量に
転換したように感じます。
哲学では、
人間は閾値を超えると
情報を減らして身の回りの小さい世界にしか
関心を持たなくなると言われますが、
同時代のほとんどの人達が
閾値を超えて
欲望が薄くなり、
世界が細分化して
断絶していく中で、
カマシワシントンさんは
閾値を高めて
表現をされているのだなあと。
これも何の引用か覚えていないけれど
一昔前は
ミュージシャンには
酒と女性とドラッグがつきものだったけれども、
カマシワシントンさんやフライングロータスさん達同時代の仲間内での合言葉は
「昨日、何時間練習したか?」
すなわち一日のどれくらいを
閾値を高める為に使ったか?
ということでした。
既存の知の量が多ければ多いほど
閾値を高めるのには時間がかかります。
彼らは、既存の知を編集したうえで
自分の音をのせる為に
膨大な時間を
他の全てを犠牲にして
捧げているのです。
こうすれば上手くいくというような
安易なノウハウや
音楽でいう
酒や女性やドラックのような
分かりやすいポーズが
ますます通用しなくなってきて、
閾値を高めるためには
地道で膨大な時間が必要だという
厳しくて平等な時代になってきた今、
さて、
自分の子供たちを考えたら・・・。
以上、子供たち頑張れよ~、
もちろん自分も頑張らなくては・・、
という絶望的だけど
凡人には福音だなあという話でした。
2016年06月18日 00:00