京都嵐山 越天楽 縦横無尽

自分たちで面白いと感じる作品や商品を
自分たちが楽しみながらつくりあげた時間と空間にのせて
お客様に喜んでいただけることが何より嬉しいです。

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社長雑記

志ん朝さんの「ふら」





 

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( 写真は或る日の渡月橋から見た愛宕さんです)

 

昨年

大切で

苦手なことに

シーシュポスさんのような気持ちで

向かい合わせてくれる

税務作業に

談志さんと共に

在る

という話を書きましたが、

毎年同じことというのは嫌いなので

今年一緒に

在るのは

志ん朝さんでした。


(志ん朝さんの愛宕山です)

 

談志さんの

日常からの

芸に対する

執着と

執念、

自己の芸に対する

観は

他に追随を許さないもので、

狂気系の

落語

 「死神」

の偏執的な素晴らしさは

今お弟子さんがされても

物足りなく感じ、

それを超えるものは

未だにないと

思っています。
(お弟子さんの談春さん最近凄いと思いますが)

(談志さんの死神です)
 

一方

志ん朝さんは

日常から

江戸の粋の

立ち振る舞い、

努力を見せずに

軽いのに

深い、

色気と艶、

にじみでる滑稽味、

落語でいうところの

「ふら」

を体現された方

だと思っています。

(志ん朝さんのそば清です)
 

相反する

二人に共通するのは

自分の

生まれもった

できることだけを

深めていく、

「中庸」

いうところの

「天命」

を脇目もふらずに

きわめつくした

というところだと

思っています。

 

ということは

自身に置き換えて

考えると、

結局

昔、恩人

に頂いた言葉

「慎独」

から入らなければ

ならないわけで‥。

 

 

 

以上

苦手な上に

山のようにある

事務作業から逃走して、

ブログを続け様に二つ書いてみたけど

当然

状況は全く変わっていない・・・。

という話でした.




 

2016年02月01日 00:00

2016年宜しくお願いいたします


 



 

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(写真は越天楽イベントです)

 


あけましておめでとうございます。


2016年も

越天楽

縦横無尽では

より楽しい

作品と

空間と

時間を

お届けして、

もっともっと

お客様に喜んで頂くよう

天をも越える楽しさで

縦横無尽に

精進してまいります。

 


どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

越天楽

縦横無尽

スタッフ一同

 

2016年01月17日 19:09

3歳の息子と中小零細自営業者の悪足掻き





 
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(写真は今年も行くことになるであろう福井の恐竜博物館です)


3歳の息子は
おそらく狩猟時代の本能だと思うのですが、
恐竜が大好きで、
それに加えて、
鉄砲、剣とを
日々
せっせと
家のセロハンテープを使って
創造しています。

 エドワードホールさんは
「人類とは人間の延長物をつくっている」
と言いましたが
まさに息子は
自分の延長物が大好きです。

人類で言うと
足の延長として車、
力の延長として兵器であったりしますが、
大人になって
社会に対する延長物の線から
漏れてしまうと、
宗教やマルクスさん
にいくのはまだいい方で、
延長物を
運だけが唯一の合理だと
判断してしまうようになるのは
恐ろしいなあと思います。

論理性のない思考省略の勘
濡れ手に泡の幻想
思考停止で働く
という
心理の先に戦争があり、
ドラッカーさんいうところの
「現状維持を望む果ての
運にしか合理を見いだせない人間は
ナチズムに進む」
という言葉は
中小零細自営業者にとって
手放してはいけない言葉だと思っています。

自分に絶望しながら、
自分の延長物に対して
良く言えば
「あきらめない」、
身もふたもなく言えば
「ただの悪足掻き」・・・。

中小零細自営業者
の僕たちは、
誰からも評価されず
評価されることも求めずに、
ただただ
孤独に、
自己満足に、
「悪足掻きしながら生きていくのだ」

息子を見ながら思うのでした。


以上、息子がテープを使いすぎるので
卸ベースでセロハンテープを購入しようかなあ
という話でした。

 
2016年01月10日 00:00

2016年は風天小畜から沢天夬へ





 

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(写真は松尾さんの天狗さんです。写真のどこかにいます)

 

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

昨年、個人的な

年初にあたっての備忘録を

つらつらと

書きましたところ、

今年も書いてくれという

ご要望を頂きました。

 

今年はやめておこうと思っていましたが、

自分にとって

良き通過儀礼に

なっていくかもしれないので

書きます。

 

お店としてのご挨拶は

 後日させて頂きますね。

 

ただ、昨年から学んでいる

中国古典の影響で

かなり分かりにくいと思いますので、

読みたい人だけ読んでくださいね。

 

 

昨年学んだ易経
(全く終わりが見えずに今年も
学ぶことになりそうですが…)

「風天小畜(ふうてんしょうちく)」

という卦があって、

易占ででると

どんなに前に進もうとも

上手いこといかず

とどまれという卦ですが、

卦自体の意味でいうと

上手くいかないこと前提で

やらざる得ない状況に

自分をおいて、

結局上手いこといかないけれど

ひたすら淡々とやり続ける

という意味にもとれます。

 

もう一つ

「沢天夬(たくてんかい)」

という卦があり、

これも易占でいうと

今までの悪業が

いっぺんに噴出するという

大変な卦ですが、

卦自体の意味でいうと

良きことも

悪しきことも

小さな繰り返しにより

積み重なって、

すぐに答えを出さずに

悩み続ける

または先送りすることで、

ある日

ダムが決壊するように

溢れだす

という意味にもとれます。

 

良きことの

小さい

継続的な

繰り返しの中で

意図的に解決策をださない先にある

「創発」

ということですね。

 

 

ここまで読んで頂ければ

お分かりだと思いますが、

2016年は

自分にとって

上手くいかないであろうことを

やらざるえない状況にして、

ひたすら淡々と

繰り返し

繰り返し

繰り返し

繰り返して、

悩んで

悩んで

悩んで

答えを出さない先にある

「創発」

にいたりたいなあ

と思っております。

 

 風天小畜から沢天夬へ

 

 

以上、このブログ自体が

「風天小畜」だなあ

という話でした。

 

2016年01月04日 00:00

2015年有難うございました。




 

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(写真は越天楽の「からすのまくら」です)

 

2015年は

12月22日(火)をもちまして

越天楽

縦横無尽

の営業を終了させていただきます。

有難うございました。

 

2016年は

1月8日(金)より

営業させていただきます。

皆様良い年をお過ごしくださいませ。

 

 

越天楽

縦横無尽を通して

関わって頂いたすべての方に

感謝をこめて

 

 

越天楽

縦横無尽

代表 河野隆史

スタッフ一同

より

 

2015年12月18日 00:00

星野源さんと修羅の道



 

(動画は好きな曲、以前も紹介した星野源さんの「日常」です)

 

 

商売をしている際に

特に零細中小自営業者の話ですが、

簡単で分かりやすいことは大手がするし、

こだわりにこだわった難しいことは

利益が上がらないでもいいアマチュアか、すごい国宝級の仕事になるし、

その間の

傍目から見てよく理解できない

こだわりはあるけど打ち出さず、

簡単そうで簡単でない、

要するに中途半端で

得体のしれない、

かっこよくいえば

「修羅の道」

とも言えるポジションを

意図的にとっていくことが

大切だと

個人的に思っています。

 

ただ、零細中小企業の社長のつねで

 バランスをとりながらと思いつつ、

常に過剰で

やり過ぎで

動き過ぎて、

痛い目にあい、

なんとか

「修羅の道」にのれたのは

わずかなバッファと

運が良かっただけというところが

身も蓋もない現実です。

 

好きな歌手である

星野源さんは

この「修羅の道」を行く方で、

音的に

単純なポップスにみえるなかに

ちりばめられた

前面にでない

スカやジャズのバランス、
(まあ個人的に細野晴臣さんが好きなので
彼に対するオマージュがあるだけで
音的にいいと勝手に決めているような
ところはありますが・・・)

ことばも

こだわったような

こだわっていないような

メタファーの使い方と

しゃらくさい感じで

好きだなあ~。

 

「SAKEROCK」

というインストバンドでの

深く潜った時代を経てからの


(SAKEROCKさん、木琴の音が好きです)

 

歌が入った個人名義の

ファーストアルバム、

セカンドアルバム

あたりが一番好きで、

「あ~この得体のしれない感じがいいなあ~」

と良く聴いています。

(星野源さんのくだらないの中に)

最近は、分かりやすい方に向かっていかれているので

そろそろまた、分かりにくいほうに潜っていかれないかな~

というのが星野源さんに対する個人的な望みです。

 

ただ、売れると色んなものを背負って難しいと思うし

別名義で何かされないかなあ~。

 

 

以上、星野源さん紅白出場おめでとうございます

という話でした。


 

2015年12月07日 00:00

モンゴル帝国と娘の教育



 

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(写真はモンゴルで一番大きい仏さんです)

 


お客様や友人に最近ブログ更新してないね

と連絡頂きました。

有難うございます。

忙しい時はなかなか更新できませんので

ご了解下さいね。

 

 

20歳前後に商売をはじめた時、

モンゴル語を勉強するところに籍を置いていたこともあって

モンゴルとの貿易会社として

スタートしました。

 

立ち上げ時は、

コネもないので

現地で日本語学校を開いたり、

旅行会社を立ち上げたけど

お客様が集まらなかったり、

ポテトチップス販売をしようとして

油が嫌になり製作段階で挫折したり、

現地で化粧品販売をはじめて

中国や韓国の参入で撤退したり、

チーズを輸入して販売したのですが

全く売れなかったり、

結局そこそこ結果が出たのは

日本語学校ぐらい

と散々だったのですが、

モンゴルの人たちに接していて

一番感じたことは

その寛容さでした。

 

例えばこちらがしかるべき意見と技術を提案すると

すぐにテレビ局の社長が会ってくれて

100円ぐらいで日本語学校のテレビ宣伝をさせてくれたり、

ちょっとしたパーティーでの機会に

モンゴルの大統領に日本語学校の在り方を提案出来たりするのです。

 

 

ほとんどの方はご存じだと思いますが

モンゴル民族は

世界最大の帝国

モンゴル帝国をつくった民族です。

 

現在の世界で問題になっている

諸々の基となる

欧米がとってきたような

地域を支配して

自国のみに利用するような

帝国主義と違い、

帝国は

治安と法をおさえた他は

宗教にも経済にも

非常に寛容であったと

現在の歴史学では

言われています。

 

現在の資本主義は

帝国主義ではなく

この寛容な帝国からきているとも言われています。

 

実際、帝国主義ではないところからできてきた

国という単位からの制限の少ない

インターネットの世界では

GOOGLEさんや

AMAZONさんが

帝国と呼んで差支えないような

ルールさえ守れば寛容で

だからこそシビアな世界をつくりつつあります。

 

そんななかで日本は

常に帝国の辺境に位置して

独自の

帝国のルールがおよばないところで

存在してきました。

 

グローバルとは要するに

辺境のルールが変わり

この帝国のたしなみを身に着けるということならば、

インターネットに端を発する

これから迎える

どんなものか分からないけれど、

寛容でシビアな帝国の中で

自分達がどのようなことをしていくのか?

子供たちがどのように対していくのか?

を考えざる得ません。

そして歴史的にみていくと

生き残っていくためには

「語学と技術」

しかないと思うのです。

 

 

娘も小学校も半ばになってきて

これから世の中をどのように迎えていくのかと考え、

もし、娘にこれからどうしていったらいいのかを

問われた時に、

父親として

これから迎えるであろう帝国のたしなみ、

語学は今のところ英語で

技術は

数学的な統計学とインターネット技術

いや国際的なお金の流れ

すなわちか会計かもしれない

と色々考えて

答えることのできる状態にしなければと自分なりに準備していました。

 

しばらくして、たまたま未来のことを

テレビで放映していて、

これはいよいよ聞かれるのではないかと

身構えていたのだけれども、

娘は

一を言えば十を教えようとする

何を言っているかよくわからない過剰な父ではなく、

いつも的確に質問に答えてくれる母に

「これからどうしていったらいいの?」

と聞くのでした。

 

そこでの母の答えは

非常に明瞭で

「女は愛嬌、笑顔とあいさつ」

と一刀両断して

娘と僕を

なるほどと

見事に納得させるでした。

 

 

 

以上、笑顔とあいさつは大切だよという話でした。

 

2015年12月02日 00:00

BLUE GIANT


 



 


(ジョン・コルトレーンさんのカウントダウンです。
ヘッドホンかイヤホンで大音量で聞いてください。
ぶっ飛びます。)

 

 

書籍は難しくて良くわからないので

おすすめの漫画があれば教えてほしいという

メールを頂きました。

 

僕に聞いて参考になるのだろうかと

思いながら

一応ご紹介しますね。

 

「BLUE GIANT」

 

石塚真一さん作で

ジャズを志す

男の子の漫画です。

 

昔、シャーマンが雨乞いのために

火を焚いて、

一生懸命焚いて、

そうすると蒸気として昇って行って

雲になり、

やがて雨になる。

いわゆる

「一念」

といわれるものについての漫画です。

 

石塚さんは

「岳」

という

登山についての作品もあり、

この

「一念」

を描かせたら

他に類を見ない方だと思います。

 

周りは無理だと言おうが

何と言おうが

わが道を行き、

やがて

雨を降らせる。

その間にはすごく長い長い時間がある。

 

降らないだろうとバカにする周りに関係なく、

降るかもしれないと応援する周りにすら関係なく、

自分だけがいつかは降る雨を

か細く

必死に信じながら。

 

 

栃木のJAZZBAR近代人のマスター

が言っておられた

「JAZZは大音量で聞きな」

ということも書いてあったりして

好きな漫画の一つです。

 

 

マイルス・デイビスさんが

晩年ヒップホップを取り入れたり、

大好きな山下洋輔さんも

病床の後に

今までのすべてを否定して

新しいものに向かっていったように、

JAZZは

自分がJAZZと決めた時点で

すべてがJAZZになるという

常に新しいものを入れて変化する

特異なところと、

古典落語のように

一つテーマを

色んな人がその人なりのやり方で表現するという

芸能的な

2面性を持つ面白さがあります。

 

ただ、年を取ってくると

マイルス・デイビスさんのヒップホップ化は許せても

フライング・ロータスさんの

「ユーアーデッド」

をどうしてもJAZZと認めることが出来なくなってきていて、

このあたりの葛藤が

感性を徐々に置き去りにしながら

年を取るということなのかなあ

としみじみ思います。

 

 

以上、やっぱりフライング・ロータスさんは

JAZZではないんじゃないかと

言い張りたくなる話でした。


 

2015年11月15日 00:00

「6歳の僕が大人になるまで」とバズライトイヤー




 

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(写真は昨年行ったディズニーランドで買った実物大バズライトイヤーです)

 

昔よく映画を見ていたのに

加齢のせいかほとんど見なくなりました。

最近、久しぶりに見たいなーという映画があって

それが

「6歳の僕が大人になるまで」

という映画でした。

 

映画館に行くには時間はないので

DVDを借りに行こうと

レンタルショップに

3歳の息子と一緒に行ったのですが、

タイトルをど忘れして

「えーと確か「大人になるまで」といった感じです」

と若いアルバイトの女性に伝えると

その若い女性はかなりひきつった顔で

僕と息子をアダルトコーナーに

案内してくれました・・・。

 

まあそんな苦労をして

借りた映画は

なかなか良い内容でした。

 

ストーリーや結末としたらよくある分かりやすいものですが、

映画の中で流れる

10数年間の歳月に同じ役者さんを使っていて、

役柄だけでなく役者さんを含めた成長を描いていくという手法で、

しかも、映画の中になるべく時間を感じさせるものを置かないし示さないことで

僕たちが日常に感じている

「あれ、うちの子いつの間にかこんなに大きくなったんだ」

というような時間の流れや積を

短い時間で相対化させてくれる内容でした。

 

この映画を見た後

大好きなバズライトイヤーが出てくる

「トイストーリ―」

を息子とみていたのですが、

バズライトイヤーが

この映画の時間の流れや積を一言で表現してくれていました。

 

 

「飛んでるんじゃない。落ちてるだけだ。かっこつけてな。」

 

 

 

以上、タイトルはしっかりメモしていこうと思った話でした。


 

2015年11月06日 00:00

前に進まないこと   あーでもないこーでもないの先





 

今回特に言語化しにくいものを自分の為に書いているので辻褄合わないと思います。読みたい人だけ読んで下さいね。ninnnaji88

(写真は成就山八十八ヶ所の五十三番です)

 

先日、「あーでもないこーでもない」というブログを書きまして、

「そうですよね。分かります。」というような共感のメールまで頂き嬉しかったのですが、

何だか違和感があるのでかきます(メール頂いた方すいません)。

 

あーでもないこーでもないと前に進むことをしていると、

大変ですけれど結構楽です。

前に向って頑張りさえすればいいので。

 

現象として悩ましいのは

あーでもないこーでもないとしていて、

どんどん上がり続けていると必ず平らな場所が出てくることです。

どんなに前に進もうとしても、

上に行けない時、

下手すると下がっていく時が出てくることです。

 

 

この時、前に進もうとすると何故だか、

自分の健康や家族の健康を害したり、

上手いこと行かなくなって様々なことが起こり、

八方塞りになります。

 

もともと歴史が好きで、

この様に前に進まなければならない、

こうあるべきという思考法はいつからかなあとみてみると、

どうも戦後にアメリカさんが来た時からのようです。

最近特に日本や中国の古典に意識的に触れるようになると、

みんな処し方として(この処し方としてというのも前に進むという思考法ですが‥)

全く反対の「前に進むな」と同じことをおっしゃっています。

 

「受け入れろ」

「前に進むな」

「治そうとするな」

「こうすべき、こうあるべきとは存在しない」

「諦めろ」

「手放せ」

「少しずつ」

「落ちる時は落ちろ」

「答えを求めるな」

「ただ繰り返せ」

 

 

最近家族が体調悪くなり、

それを治そうと色々術を探していますが、

それを治そうとせずに、

何故事象が起こったかを考え受け入れろということは、

今まさに目の前に起こっていて、

今までの思考の癖もあるだけに

難しく、

どうしても治そう、治そうと前に進んでしまいます。

 

 

言葉にすると簡単で、でも意味はどうしても変わって来るのだけど

「そうなんだよな〜」

を受け入れ、味わうことなんだよなあ‥。

 

 

 

そんなことを考えながら今の日本を考えると‥‥‥。

 

 

以上、やっぱり言葉は自分から離れた瞬間に違うものになるなあという話でした。



 

2015年10月26日 00:00