京都嵐山 越天楽 縦横無尽

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禅の和尚とおなら


 


 

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(写真は松尾さんの山吹です)

 

商売をはじめた時から

ずっと探していて

いまだに出会うことのできない人に

禅の和尚がいます。

 

見たくない現実を見るのが苦手な

僕にとって

見抜いてくれる

理想の

禅の和尚のような存在を

ずっと探していました。

しかし、いまだに見つかっていません・・・。

 

 

2016年も4月になり

小学校に行っている娘の学年も変わり、

娘が持って帰ってきた

新しい担任の先生の文章に

アインシュタインさんの言葉が書いてあって、

フロイトさんがいう

「超自我」

についての文章だったのですが、

大好きな奥さんに

「新しい先生、超自我の事を書いていていいね~」

と話していると、

「ふ~ん、まあ嫌いではないけれど」

と言いながら

全く関心のない様子でした。

 

しばらくして

別の時に

「超自我」

の話をしていたら、

どうも僕の滑舌が悪く

「超自我」

「鳥獣戯画」

と聞こえていたようで、

説明すると

今度は

「超新星」

に聞こえたらしく、

「どうでもいいわ」

と一喝されました。

 

それでも

「超自我」

について分からないかもしれないと

しつこく
(そういう性格なのです)

「子供のころに

人前でおならをしても平気な家庭と

絶対にしてはいけない家庭があるだろう。

してもしなくても

どちらが正しいではなく

家庭で正しいと与えられたもの

それを「超自我」というんだよ」

と言うと、

奥さんは

「小難しい言葉を使いたがる

あなたの説明が

おならのようで、

ただ単に

俺知っていると

言いたいだけなんじゃないの」

と見抜くのでした。

 

 

以上、禅の和尚は

探さなくても

いいのかもしれない

という話でした。

 

2016年04月27日 00:00

何かを壁に投げつけて、はりついたものを全部だす。はりつかなかったものも全部だす





 

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(写真は佐野藤右衛門さんの桜です)

 

と、いうわけで

ボブディランさんのコンサート

行って参りました。

 

今、感傷的に

彼から思う

「欲望」

を考えています。

 

 

 

「何かを壁に投げつけて、

はりついたものを全部だす。

はりつかずに落ちたものも全部だす」

というのは

ボブディランさんの言葉だと

記憶しているのですが、
(確か自伝で書かれていたかもしれないというだけでかなり曖昧です。間違えていたらすいません‥)

「はりつかずに落ちたもの」

を思うとき

焦燥感に襲われます。

 

自分の持ち分で

はりつかずに落ちたものは

何だろう?

 

ボブディランさんは

落ちたものすら出していたけど

僕はどんな

はりつかずに落ちたものを

出すことができるのだろう?

 

哲学は

解き明かすことではなく

今のところただの理屈になってしまったけれど、

それでもなお

好きなハイデガーさんの

「投企」

という言葉は

死に向かう人間に出来る

唯一の選択として

「投げつけろ」

といっていて、

ボブディランさんのコンサートで

久しぶりに

ハイデガーさんを思い出して、

理屈っぽい人間は

もう間に合わないという

結果も

出てしまったけれど、

それでもなお

 

「壁に投げつけて、

はりついたものを全部だして、

はりつかずに落ちたものも全部だそう。」

と決めるのでした。

 

そうするとやることだらけだ‥。

 

 

以上、感傷的な時は

自己満足に終始するなあ〜、

それにしても日本人はやさしいなあ〜

という話でした。

2016年04月11日 00:00

偏屈男の学び方





 

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(写真は渡月橋から見た朝日です)

 

 

 

中小零細企業社長の常として

人の話は聞きません。

「なるほど」とうなづいている時

大体別のことを考えています。

 

ただ、そんな偏屈な人間でも

学びたい

成長したい

ということもあります。

 

通常、学びたいことには

優れた先達がいて

自分の学びの為に

一応質問してみます。

自分を晒さない

自己防衛の質問で‥。

「まあ俺分かっているけど一応聞いてみるわ」

的な態度で‥。

 

もちろん、求めている

先の礎石になるような

答えは得られず

結局自分で学ぶことになります。

毎回分かることは一つです。

 「自分でやるしかないなあ‥」

 

 

そんな人間が何かを学ぼうとすると

ものすごく時間はかかるんだけど

前に進まずに

戻って戻っていくしかないわけで‥。

 

まあ、そんな偏屈な僕は

数年前から複雑系を学びたくて

学ぶ時はこれも偏屈ですが

原典からしか興味なく

マンデルブロさんの

「フラクタル幾何学」

にアプローチしているのですが

全く近づけませんでした。

 

前提となる微分積分や位相幾何学の知識がないのです。

で、その手の本を読むのですが

全く歯が立たない‥。

 

諦めかけていた時

娘が

小学生なのですが

分数の問題をしていて

僕がやってみると

間違えて、

笑われながら分かったことは

「分数の認識を間違えていた」

という衝撃でした。

 

分数を認識した今

マンデルブロさんの本

少し、思考のフックに引っかかってきています。

 

良き師が無理な僕は

学ぶ為に

小学生まで戻って

学ぶ必要があるという

愕然とする現実でした。

 

これ、仕事で

良き師が無理な場合

プライドを捨てて

何処まで戻れるかが

結果を左右するということなんだよなあ。

深く戻ると

当然のように

 生育歴までいってしまうけど‥。

 

 

以上、義務教育大切だなあ〜

という話でした。

 

2016年02月28日 00:00

本好きの病 ニーチェさんからドラッカーさんへ





 


(写真は今、どはまりしている日本酒「祐星」です。
大阪中心にいくつか店舗をされている鳥中心の居酒屋さんのオリジナルで、
大阪に行って飲む時は最近これしか飲んでいないぐらい好きです。)

 

 

幼いころから

本が好きな人間の常として

20歳前後は

マルクスさんか

ドフトエフスキーさんか

ニーチェさんに
(他にも色んな哲学等はあると思いますが)

かぶれてしまいがちだと

勝手に思っています。
(あくまで僕が思っているだけですよ。)

 

僕自身は

マルクスさんの堅牢な論理構築は苦手で、

ドフトエフスキーさんの情緒的な心象風景も受け付けず、

ニーチェさんのちょっと行き過ぎた感じが好きで

ご多分に漏れず

かぶれておりました。

 

かぶれ過ぎて

二十歳前後に

ニーチェさんが創作していた

フランスのニース近くにあるエズの村まで行って

ニーチェさんが歩いた道を

歩いてみたりと

気取ってもおりました・・・。

 

もちろん、

全く、

これっぽっちも、

超人にはならないし

創発も起こりませんでしたが・・・。

 

で、その後ドラッカーさんに出会って

ドラッカーさんの

一文で

ニーチェさんを卒業して

商売に入るわけですが、

ちょうど

ドラッカーさんに出会ったころに

ドラッカーさんが来日されて

確かダイヤモンドさん主催だかと思うのですが

講演があって、

東京で

10万円くらいで

当時商売をはじめていたけれども

全然余裕がなくて

無理だなあ~

と思っていかなかったのですが、

それが最後の日本講演で

「いけばよかったなあ」

と今でも後悔しています。

 

基本的に後悔はない性格ですが

立川談志さんの

亡くなられる前の高座と

ドラッカーさんの

最後の日本講演は

行けばよかったな~。

 

で、

このまとまりのない

文章で

結局言いたかったことですが、

4月は嵐山で桜が美しく咲き

多くの方にお越しいただき

お店もささやかながら忙しくなる中で、

4月に

大好きなボブディランさんの

日本公演があって、

ボブディランさんは74歳になられてて

お元気だとはいえ

できたら今回行きたいな~と。

 チケットもう買ってしまったし・・・。

 

 

以上、4月11日は店がどんなに忙しくても

僕は諸事情により店を休んでおります

という話でした。

 

 

2016年02月01日 00:00

志ん朝さんの「ふら」





 

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( 写真は或る日の渡月橋から見た愛宕さんです)

 

昨年

大切で

苦手なことに

シーシュポスさんのような気持ちで

向かい合わせてくれる

税務作業に

談志さんと共に

在る

という話を書きましたが、

毎年同じことというのは嫌いなので

今年一緒に

在るのは

志ん朝さんでした。


(志ん朝さんの愛宕山です)

 

談志さんの

日常からの

芸に対する

執着と

執念、

自己の芸に対する

観は

他に追随を許さないもので、

狂気系の

落語

 「死神」

の偏執的な素晴らしさは

今お弟子さんがされても

物足りなく感じ、

それを超えるものは

未だにないと

思っています。
(お弟子さんの談春さん最近凄いと思いますが)

(談志さんの死神です)
 

一方

志ん朝さんは

日常から

江戸の粋の

立ち振る舞い、

努力を見せずに

軽いのに

深い、

色気と艶、

にじみでる滑稽味、

落語でいうところの

「ふら」

を体現された方

だと思っています。

(志ん朝さんのそば清です)
 

相反する

二人に共通するのは

自分の

生まれもった

できることだけを

深めていく、

「中庸」

いうところの

「天命」

を脇目もふらずに

きわめつくした

というところだと

思っています。

 

ということは

自身に置き換えて

考えると、

結局

昔、恩人

に頂いた言葉

「慎独」

から入らなければ

ならないわけで‥。

 

 

 

以上

苦手な上に

山のようにある

事務作業から逃走して、

ブログを続け様に二つ書いてみたけど

当然

状況は全く変わっていない・・・。

という話でした.




 

2016年02月01日 00:00

3歳の息子と中小零細自営業者の悪足掻き





 
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(写真は今年も行くことになるであろう福井の恐竜博物館です)


3歳の息子は
おそらく狩猟時代の本能だと思うのですが、
恐竜が大好きで、
それに加えて、
鉄砲、剣とを
日々
せっせと
家のセロハンテープを使って
創造しています。

 エドワードホールさんは
「人類とは人間の延長物をつくっている」
と言いましたが
まさに息子は
自分の延長物が大好きです。

人類で言うと
足の延長として車、
力の延長として兵器であったりしますが、
大人になって
社会に対する延長物の線から
漏れてしまうと、
宗教やマルクスさん
にいくのはまだいい方で、
延長物を
運だけが唯一の合理だと
判断してしまうようになるのは
恐ろしいなあと思います。

論理性のない思考省略の勘
濡れ手に泡の幻想
思考停止で働く
という
心理の先に戦争があり、
ドラッカーさんいうところの
「現状維持を望む果ての
運にしか合理を見いだせない人間は
ナチズムに進む」
という言葉は
中小零細自営業者にとって
手放してはいけない言葉だと思っています。

自分に絶望しながら、
自分の延長物に対して
良く言えば
「あきらめない」、
身もふたもなく言えば
「ただの悪足掻き」・・・。

中小零細自営業者
の僕たちは、
誰からも評価されず
評価されることも求めずに、
ただただ
孤独に、
自己満足に、
「悪足掻きしながら生きていくのだ」

息子を見ながら思うのでした。


以上、息子がテープを使いすぎるので
卸ベースでセロハンテープを購入しようかなあ
という話でした。

 
2016年01月10日 00:00

2016年は風天小畜から沢天夬へ





 

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(写真は松尾さんの天狗さんです。写真のどこかにいます)

 

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

昨年、個人的な

年初にあたっての備忘録を

つらつらと

書きましたところ、

今年も書いてくれという

ご要望を頂きました。

 

今年はやめておこうと思っていましたが、

自分にとって

良き通過儀礼に

なっていくかもしれないので

書きます。

 

お店としてのご挨拶は

 後日させて頂きますね。

 

ただ、昨年から学んでいる

中国古典の影響で

かなり分かりにくいと思いますので、

読みたい人だけ読んでくださいね。

 

 

昨年学んだ易経
(全く終わりが見えずに今年も
学ぶことになりそうですが…)

「風天小畜(ふうてんしょうちく)」

という卦があって、

易占ででると

どんなに前に進もうとも

上手いこといかず

とどまれという卦ですが、

卦自体の意味でいうと

上手くいかないこと前提で

やらざる得ない状況に

自分をおいて、

結局上手いこといかないけれど

ひたすら淡々とやり続ける

という意味にもとれます。

 

もう一つ

「沢天夬(たくてんかい)」

という卦があり、

これも易占でいうと

今までの悪業が

いっぺんに噴出するという

大変な卦ですが、

卦自体の意味でいうと

良きことも

悪しきことも

小さな繰り返しにより

積み重なって、

すぐに答えを出さずに

悩み続ける

または先送りすることで、

ある日

ダムが決壊するように

溢れだす

という意味にもとれます。

 

良きことの

小さい

継続的な

繰り返しの中で

意図的に解決策をださない先にある

「創発」

ということですね。

 

 

ここまで読んで頂ければ

お分かりだと思いますが、

2016年は

自分にとって

上手くいかないであろうことを

やらざるえない状況にして、

ひたすら淡々と

繰り返し

繰り返し

繰り返し

繰り返して、

悩んで

悩んで

悩んで

答えを出さない先にある

「創発」

にいたりたいなあ

と思っております。

 

 風天小畜から沢天夬へ

 

 

以上、このブログ自体が

「風天小畜」だなあ

という話でした。

 

2016年01月04日 00:00

2015年有難うございました。




 

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(写真は越天楽の「からすのまくら」です)

 

2015年は

12月22日(火)をもちまして

越天楽

縦横無尽

の営業を終了させていただきます。

有難うございました。

 

2016年は

1月8日(金)より

営業させていただきます。

皆様良い年をお過ごしくださいませ。

 

 

越天楽

縦横無尽を通して

関わって頂いたすべての方に

感謝をこめて

 

 

越天楽

縦横無尽

代表 河野隆史

スタッフ一同

より

 

2015年12月18日 00:00

星野源さんと修羅の道



 

(動画は好きな曲、以前も紹介した星野源さんの「日常」です)

 

 

商売をしている際に

特に零細中小自営業者の話ですが、

簡単で分かりやすいことは大手がするし、

こだわりにこだわった難しいことは

利益が上がらないでもいいアマチュアか、すごい国宝級の仕事になるし、

その間の

傍目から見てよく理解できない

こだわりはあるけど打ち出さず、

簡単そうで簡単でない、

要するに中途半端で

得体のしれない、

かっこよくいえば

「修羅の道」

とも言えるポジションを

意図的にとっていくことが

大切だと

個人的に思っています。

 

ただ、零細中小企業の社長のつねで

 バランスをとりながらと思いつつ、

常に過剰で

やり過ぎで

動き過ぎて、

痛い目にあい、

なんとか

「修羅の道」にのれたのは

わずかなバッファと

運が良かっただけというところが

身も蓋もない現実です。

 

好きな歌手である

星野源さんは

この「修羅の道」を行く方で、

音的に

単純なポップスにみえるなかに

ちりばめられた

前面にでない

スカやジャズのバランス、
(まあ個人的に細野晴臣さんが好きなので
彼に対するオマージュがあるだけで
音的にいいと勝手に決めているような
ところはありますが・・・)

ことばも

こだわったような

こだわっていないような

メタファーの使い方と

しゃらくさい感じで

好きだなあ~。

 

「SAKEROCK」

というインストバンドでの

深く潜った時代を経てからの


(SAKEROCKさん、木琴の音が好きです)

 

歌が入った個人名義の

ファーストアルバム、

セカンドアルバム

あたりが一番好きで、

「あ~この得体のしれない感じがいいなあ~」

と良く聴いています。

(星野源さんのくだらないの中に)

最近は、分かりやすい方に向かっていかれているので

そろそろまた、分かりにくいほうに潜っていかれないかな~

というのが星野源さんに対する個人的な望みです。

 

ただ、売れると色んなものを背負って難しいと思うし

別名義で何かされないかなあ~。

 

 

以上、星野源さん紅白出場おめでとうございます

という話でした。


 

2015年12月07日 00:00

モンゴル帝国と娘の教育



 

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(写真はモンゴルで一番大きい仏さんです)

 


お客様や友人に最近ブログ更新してないね

と連絡頂きました。

有難うございます。

忙しい時はなかなか更新できませんので

ご了解下さいね。

 

 

20歳前後に商売をはじめた時、

モンゴル語を勉強するところに籍を置いていたこともあって

モンゴルとの貿易会社として

スタートしました。

 

立ち上げ時は、

コネもないので

現地で日本語学校を開いたり、

旅行会社を立ち上げたけど

お客様が集まらなかったり、

ポテトチップス販売をしようとして

油が嫌になり製作段階で挫折したり、

現地で化粧品販売をはじめて

中国や韓国の参入で撤退したり、

チーズを輸入して販売したのですが

全く売れなかったり、

結局そこそこ結果が出たのは

日本語学校ぐらい

と散々だったのですが、

モンゴルの人たちに接していて

一番感じたことは

その寛容さでした。

 

例えばこちらがしかるべき意見と技術を提案すると

すぐにテレビ局の社長が会ってくれて

100円ぐらいで日本語学校のテレビ宣伝をさせてくれたり、

ちょっとしたパーティーでの機会に

モンゴルの大統領に日本語学校の在り方を提案出来たりするのです。

 

 

ほとんどの方はご存じだと思いますが

モンゴル民族は

世界最大の帝国

モンゴル帝国をつくった民族です。

 

現在の世界で問題になっている

諸々の基となる

欧米がとってきたような

地域を支配して

自国のみに利用するような

帝国主義と違い、

帝国は

治安と法をおさえた他は

宗教にも経済にも

非常に寛容であったと

現在の歴史学では

言われています。

 

現在の資本主義は

帝国主義ではなく

この寛容な帝国からきているとも言われています。

 

実際、帝国主義ではないところからできてきた

国という単位からの制限の少ない

インターネットの世界では

GOOGLEさんや

AMAZONさんが

帝国と呼んで差支えないような

ルールさえ守れば寛容で

だからこそシビアな世界をつくりつつあります。

 

そんななかで日本は

常に帝国の辺境に位置して

独自の

帝国のルールがおよばないところで

存在してきました。

 

グローバルとは要するに

辺境のルールが変わり

この帝国のたしなみを身に着けるということならば、

インターネットに端を発する

これから迎える

どんなものか分からないけれど、

寛容でシビアな帝国の中で

自分達がどのようなことをしていくのか?

子供たちがどのように対していくのか?

を考えざる得ません。

そして歴史的にみていくと

生き残っていくためには

「語学と技術」

しかないと思うのです。

 

 

娘も小学校も半ばになってきて

これから世の中をどのように迎えていくのかと考え、

もし、娘にこれからどうしていったらいいのかを

問われた時に、

父親として

これから迎えるであろう帝国のたしなみ、

語学は今のところ英語で

技術は

数学的な統計学とインターネット技術

いや国際的なお金の流れ

すなわちか会計かもしれない

と色々考えて

答えることのできる状態にしなければと自分なりに準備していました。

 

しばらくして、たまたま未来のことを

テレビで放映していて、

これはいよいよ聞かれるのではないかと

身構えていたのだけれども、

娘は

一を言えば十を教えようとする

何を言っているかよくわからない過剰な父ではなく、

いつも的確に質問に答えてくれる母に

「これからどうしていったらいいの?」

と聞くのでした。

 

そこでの母の答えは

非常に明瞭で

「女は愛嬌、笑顔とあいさつ」

と一刀両断して

娘と僕を

なるほどと

見事に納得させるでした。

 

 

 

以上、笑顔とあいさつは大切だよという話でした。

 

2015年12月02日 00:00